モアレた日記

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なんだこの自己満ブログ

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【コラム】分ける

 

あいつがわざわざ分けて買ってきてくれたらしい、大根が1つだけ入った容器を膝に乗せて、割り箸をわる。

 

この文章に出会った時、泣きそうになった。恋人が夜中に、おでんを買ってくるシーン。語り手の方は自己管理の厳しい性だから、「夜中には何も食べたくない」と言う。でも恋人は、「それでも何か食べて欲しい」とコンビニで大根をひとつだけ買う。

 

父がサービスエリアでこっそり買ってくれたプリン、恋人が皆と分けて渡してくれたお土産、母が風邪の時だけ作ってくれるお粥、それと、大根が一つだけ入った容器。「わざわざ分ける」という行為にどうしてこうも愛情を感じるのだろう。それにはひとつ、思うところがある。

 

 

「特別」に飢えている

 

現代人は、いつも「同じ」に囲まれている。同じ教育を受けて、同じ流行モノを好きになって、さらには同じ服装をするように強制されている。

それを楽だとも思う。だけれども、人間は、「みんなと同じ」では満足できないことがある。人間関係もその一つだ。

 

いやいや、「みんなと同じように友達を作らないと」「みんな彼女いるから」って言うよな。それって「みんなと同じ」じゃん、とも思うかもしれない。でもそれはステータスの話であって、関係性の話ではない。

 

ここで言いたい人間関係、関係性とは「相手は自分に対してどう接しているか」だ。

 

「相手は自分に対してどう接しているか」を考えた時、「みんなと同じ」が心地いいなんてことは一切無くなる。他の友人よりも、人間よりも、大切に思って欲しいと強く思う。深い愛情を自分に向けて欲しいと、強く思う。

 

すなわち、あなたは特別だ、と「分ける」行為自体が愛情の形そのものなのだ。だから日常的に、ちょっとした「分ける」行為が行われていると、この人は日常的に、常に愛情を向けられているのだな。と感じる。

 

盛大な誕生パーティでなくても、日常的な「分ける」行為の積み重ねが、愛情の証拠になると思う。

 

 

少し春の暖かさを感じる午後、季節外れのおでんを頬張りながら、「じゃあ、なぜ特別を求めるのだろう」と考えた。

きっと、さまざまな具に紛れた大根より、ひとつだけの大根の方がずっと美味しいのだろう。そう結論づけて、汁を飲み干した。

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