モアレた日記

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なんだこの自己満ブログ

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死と幸福についての議論(記録用)

 

 

この記事では死と幸福についての疑問点、特に私たちが「損失の悲しみ」と幸福観の矛盾した考えを持つことについて議論されています

苦手な方は閲覧しないでください

 

 

 

「死」は人間にとって幸福であるかどうかについて、様々な考え方を聞きました。欲求実現説、快楽説等、どれも興味深い考え方ばかりでした。一方で、「死は悲しいから不幸じゃないか」「でも自分は死んでも別に良いから、不幸じゃない」といった、肌感覚に近い、ぼんやりとした考えを捨てることは出来ませんでした。

授業を終えた八月末、親しい友人を亡くしました。あまり詳しいことを書くのは憚られますが、自死でした。この喪失体験の時、この講義のことを思い出しました。

「やりたいことが出来ないから不幸」だとか、「死んでしまっては何もない」だとか、講義の時は納得出来ていたことが、「違和感」に変わっていきました。自身にあったぼんやりとした考えも、ハッキリとした現実を前にしたとたん、消えて無くなってしまいました。あんなにも苦しんでいた友人が、死んでからもなお不幸と言われたり、「何も感じてない」とされるのが、耐えられなかったからです。

 

「死とは幸福か、不幸か」

またこの疑問に戻った時、私はある単語を思い出しました。キューブラーロスの死の受容過程です。人間の死に対するを、五段階で示したもので、最終過程は「死の受容」になります。この「死の受容」が、「死が幸福か不幸か」の答えの一つかもしれない、と考えました。つまり、「死に対して準備出来ている」者が、死を迎えることは少なくとも不幸ではなく、(例えば何らかの形で死を予期した患者など)「死に対して何も知らない」者は不幸である(例えば交通事故)、ということです。この場合、自死は状況に寄ります。精神疾患等での衝動的な自死は死の受容を出来ていないことになります。

 

素人の、若輩者なので非常にぼんやりした考えになってます

この死の受容と幸福の関係について、ぜひ先生の考えを拝聴したく、連絡させていただきました。また第三者が、他人の死を幸福か否か判断してしまうことについて、意義あることなのかどうか等、もう少し知りたいです。よろしくお願いします。

 

 

長文失礼致しました。

 

 

 


 

 

 

RE

 

まず、大切なご友人が亡くなられたことについて、心からお悔やみ申し上げます。
大事な人が亡くなるとき、特にそれが自死によるときには、もちろん本人が一番苦しかったとしても、
周囲のご家族や友人も非常に苦しむものですので、あなた自身もとても辛いのではないかと思います。


私がご友人について存じ上げない以上、何か個別的なことを言うことはできませんので、
以下ではお尋ねいただいた点に関して、いくつか一般的なことを述べてみます。


まず、あなたが感じた感情についてですが、その感情は私にもとても自然なものに感じます。
実際、親しい人が亡くなったとき、私たちはその人を不幸だと考えたくないと強く感じます。
相手が大事であればあるほど、相手を不幸で救いがないと考えるのは苦しいからです。
だからこそ、私たちはどこかで、死において相手に救いがあったこと、
あるいは(例えば死後に何らかの形で)相手に救いがあることを強く望みます。
(これは、魂のようなものの存在を信じたくなる理由の一つです。)


他方で、私たちはやはり、大事な人が亡くなられてしまったことを悔しく、辛く感じます。
死は大きな損失であり、思いとどまってほしかったと感じるのを止めるのは非常に難しいです。
もちろん亡くなった人を不幸だと思いたくないとしても、では幸福でよかったなどと簡単には思えないのは、
まさにこうした損失が大きいと私たちが感じるからではないでしょうか。
そして、授業でしていたのは、まさにこの「損失」を理解するということでした。
(剥奪説は、まさにこの点を理解しようとする試みです。)


この相反する二つの感情をどう考えるのかは難しい問題ですし、ここで結論を出すような問題ではないですが、
一つ言えるとすれば、この二つの感情はどちらも大切なものですし、
まさに亡くなった方が大事な人だからこそ生じるのだと思います。


次に「死の受容」についてです。ほとんどの人は何らかの形で自分の死に直面することになるため、
死をどのように受容するかという問題は、とても切実なものです。
そして、自分の死を受け容れられることは、当人にとって大きな救いになるということも間違いないと思います。
ただ、少し気になるのは、受容すれば死が不幸ではなくなり、受容できなければただ不幸であると
考えてしまってよいかということです。本人が受容できていたとしてもやはり辛い死はあると感じますし、
受容できなかったならば不幸だと簡単に言ってしまって良いのかとも感じます。
なので、死を受容できることは大事なことだと考えているが、他方でそれで死を不幸とするかどうかを
決められるのかについては不安があるという意見になるでしょうか。


最後に、第三者が他人の死を幸福か否か判断することについてですが、
まず一般的に言えば、当人の事情を十分に知らない人が、他人の死の幸福や不幸について
十分に判断できるとは考えにくいので、多くの場合は差し控えるべきではないかと思います。
また、親しい人や家族であっても知らない事情がありうることから、親しくても判断はかなり慎重で
あるべきだと思います。ただ、では一切判断してはいけないかというと、そうは考えてはいません。
相手のことを大事に思っている時には(とりわけ、相手が死を選ぶ前の段階では)、
相手を尊重しつつも、自分の判断を伝えるべきときもあるのではないかと考えています。