モアレた日記

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【コラム】チラシの裏#1

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チラシの裏にでも書いとけよ的な記事です。

承認欲求

 

・承認欲求→他人に認められたいという欲求

自己顕示欲は注目されたいという欲求なので少し違うことに注意されたい

 

 

 

最近Twitterで某人が「褒められた、絵描いててよかった」とよく言う。正直これに違和感を感じている。

 

それは「なぜ絵を描いた報酬が承認なのか」という点である。上記のツイートは「絵を描くことは苦痛も多いけどもそれを覆すくらい報酬である承認が嬉しい」とも受け取ることが出来る。

 

では「報酬が承認である」というのはどういう状態なのか。

それは子供の成長が良い例である。子供が初めて承認を得るのは、もちろん親からだ。例えば何か行動を起こすたびに母親に見せたがるのも、「褒められたい=愛されたい」という欲求の現れだ。

(なぜ褒められたいと思うのかは「エディプスコンプレックス」で検索してどうぞ)

そして家族=小さな社会に生き、その中で役割を学んでゆく。

このプロセス(承認=報酬)が人間の円滑な社会生活を作っているように思う。だから無意識のうちに他人からの承認を欲してしまうとも言える。

 

しかし「無意識のうちに承認を欲する」としてもなぜそれを絵を描くという趣味にまで「承認=報酬」を適用させてしまうのだろうか。

例えば、私がAさんに憧れて、「Aさんのような絵を描きたい」という「目標」を持ったとする。この「目標」は一見シンプルに見えるが実はその下に「Aさんのような絵が描けたら多くの人に認められる」「Aさんのような絵が描けたらもっと沢山のことが表現できる」というような欲が多く隠れており、それを集約したものが「目標」なのだ。

それが時に状況によって変動したり本来の「目標」が違うものに置き換わったり*することも多くある。

つまり「承認が報酬」という状態は目標の下に隠れた欲が、「目標」になってしまったという状態なのではないだろうか。

 

 

〜真面目なのいったん終わり〜

 

ここからは愚痴というか、マジでラフなことだけど「褒められた!やった!またやろう!」というのは一種の下品さを感じる。継続のきっかけとしてはとても強固だが危うさがある。

 

いつか承認が貰えなくなって、評価が得られなくなった時それでは「絵を描く事」は趣味ではいられなくなってしまうのではないだろうか。

しかも承認が目当てだったとは自分では気付いていないことが大半なので、「絵描くの好きだったのになぁ」とか思って遡っていったら「承認目当てやん!」って気付いて…

で、自己嫌悪して絵も捨てて終わり。そんな未来が見えちゃって本当に心配になる。みんなそうならないでね。

 

 

 

 

*絵は完成の瞬間がハッキリしない。だからSNSにアップするという行為が一種のカタルシスになっているのではないか。そしてそれが「目標」のすり替わりの一種の要因ではないか。