モアレた日記

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なんだこの自己満ブログ

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6月になったらしい

6月になったらしい

 

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泣きました 

 

こんにちはいい気分です。六月になってしまいました。何もしていないのに

 

何もしてないから今から「ストーリー」について考えようと思います、マジで

 


 

 

漫画とか、作品を作るにあたって大切なのは「感覚」だそうです。以下の文章はそれを意識して描いてみました、エッセイもどきです。

 

 

「土色に窄まつて開いてゐる老女のしなびきつた唇は、みにくいと感じただけに過ぎない。もう一つ、そんな醜いものを半公開の儀式にまで仕立てる大人たちの愚かさに、へんな軽蔑の情をおぼえただけにすぎない。少年はむしろ祖母に同情した。彼女の死への同情ではなかつた」(神西清1951年文學界にて発表『少年』)

 

これは祖母が亡くなり、葬式を行うシーンの描写である。主人公は内向的で、あまり他人の心がわからないので普通悲しみに暮れるはずの祖母の葬式でさえ「気持ちの悪いもの」と表現する。

小学2年生の頃に、私の祖母は亡くなった。葬式どころか、死さえよくわかっていなかった私は母に連れられ、初めて祖母の葬式に参加した。式が始まる少し前に会場に入り、母は祖母の顔を見てあげなさい、と私に言った。

その時に見た祖母の顔が忘れられない。あまりに衝撃的ですぐに顔を背けてしまった。その後、葬式が終わった数ヶ月間は祖母の顔をもっとよく見ればよかったという後悔の念と、彼女の死に顔の恐怖が入り混じった、なんとも言えない心地で過ごした。しかし、テレビや映画、ニュースによって、徐々に葬式は「悲しいもの」というイメージに塗り替えられていった。

それから何年も後にこの神西清『少年』に出会った。このシーンを見た時、忘れたはずの怖いような気持ちの悪いそうな感情を思い出し、強烈な印象を覚えた。「土色に窄まつて開いてゐる老女のしなびきつた唇」がありありと目の裏に浮かんでくるようだ。

 

 

多くは幼い頃の「感覚」でしょうか。小説家の山田詠美先生(かの有名な『ひよこの目』の作者)はこれを意識して作品を作るそうです。

「感覚」を思い出すのは辛い作業です。なぜなら、そういうのはいつも辛い場面ばかりありありと浮かんでくるものだから。

これって多分、生存本能的な、「危険な場面、辛い場面」は二度と繰り返さない為に強く記憶しているのでしょうね。

 

どうかな、みなさんは「生々しい体験、感覚」ってありますか?